エルガが行く

失われた鉄路を行く人のブログ。関西中心に廃線跡と貨物船の世界をご紹介します。

近鉄志摩線真珠港廃線跡レポ

今回紹介するのは独立したカテゴリにしようか迷ったいわゆる小ネタである。
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賢島駅といえばこの写真に代表されるように特急車天国である。
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この駅では普通列車はホームの片隅からひっそりと(普通列車の乗客が少ない為本当にひっそりしている)発車する。しかし1993年の伊勢神宮式年遷宮に伴う賢島駅の大改修までは普通列車はここから発着していなかった。
イメージ 3そこで今回の廃線跡が登場する。かつて賢島駅は終点ではなかった。1993年まで普通列車は現在の賢島駅の下(賢島駅は崖線の上に位置している)にホームがありそこから発車していた。そしてそのホームの先がこの廃線跡、そして真珠港駅につながる。
真珠港駅といういかにも真珠産業で知られる志摩半島らしい名前の駅は本当に真珠養殖資材の輸送に使われていた貨物駅だ。ただ真珠だけではなく海産物も取り扱っていたようである。
近鉄に貨物駅ということで不思議に思われる方も多いかもしれない。確かに現在でも近鉄は鮮魚列車を運行しているがここの貨物は貨車を使っていたいわゆる一般に想像される貨物の輸送をしていたのだ。
ではなぜそのようになったかといえばそれはこの区間の成立とも関わってくる。近鉄志摩線の前身は志摩電気鉄道という鳥羽と賢島を結ぶローカル私鉄だった。1929年7月23日に鳥羽~真珠港間が開業した時、志摩線は鳥羽で接続する国鉄参宮線に貨車を直通させられるように軌間狭軌を採用していた。
なお1944年に志摩電気鉄道は三重交通に戦時統合される。しかしその後も特に役割が変わることは無かった。
その役割を大きく変えたのが志摩半島の真珠産業の衰退(現在でも真珠養殖は見られるが60年代の航空写真を見ると入り江を埋め尽くすように真珠が養殖されている)と、1965年の近鉄への三重電気鉄道(前年三重交通の鉄道線が分離)合併である。
近鉄の他の路線と孤立していた志摩線にも時代の流れがやってくる。1970年の大阪万博に向けて当時の近鉄は「伊勢志摩を万博第二会場にしよう」と伊勢志摩の観光開発と近鉄特急ネットワークの拡大に躍起になっていた。
この時に拡大される特急ネットワークが概ね現在の近鉄特急となるが、その際に離れ小島となっている志摩線を宇治山田まで乗り入れている山田線と直結させ、上本町のみならず、延伸も近かった難波から賢島まで直通の特急で観光客を輸送しようと鳥羽線の建設に乗り出した。
しかし他の近鉄各線は概ね標準軌(南大阪線系統は狭軌)であり、そのままでは直通ができない。そこで志摩線を改軌することとなったのである。
これに伴い国鉄に直通できなくなることや貨物取扱量の減少を機に志摩線の貨物取扱は終了することとなり1969年7月1日、改軌を翌年に控え賢島~真珠港間は廃止された。
その後、志摩線は同年12月からの改軌の為の運休を経て1970年3月に標準軌路線として再出発する。実はこの時、旧真珠港駅までの線路も改軌され、普通列車の留置線として使用されている。その為真珠港駅廃止後も20年以上線路そのものは現役だった。
旧真珠港駅からレールが消えるのは1993年9月の普通列車ホーム移転時であった。
やはり近鉄という事もあり歴史の記述のみでもかなり力を入れてしまったがあくまで当ブログとしては廃線跡。現役当時の航空写真をご覧いただこう。航空写真はいつもの通り国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスを出典としている。
イメージ 41975年の航空写真から。既に貨物線としては廃止されているが留置線として真珠港駅が使われ、レールも残っている。
では現在はどうなっているのかということで取材してきた写真をご覧頂こう。取材は2018年8月19日、伊勢志摩旅行中に行っている。
イメージ 5現在の賢島駅。ちょうどこの奥のエスカレーター辺りに旧ホームがあった。
イメージ 6鳥羽側を望む。奥に見える高架橋のような部分が現在の賢島駅ホーム。高低差があるのが分かる。
イメージ 7真珠港側を望む。右側の空地が廃線跡。なおこの後の写真もそうだが廃線跡は道路そのものではなく道路の右側である。
イメージ 8廃線跡は駐車場になっている。カーブが鉄道廃線跡らしい。
イメージ 9振り返って鳥羽側を望む。駐車場として転用されている。奥の赤い屋根の建物は賢島駅。
イメージ 10真珠港側に進む。路盤は別荘なのかよく分からない建物などに転用されている。奥にはもう真珠港駅跡が見える。
イメージ 11真珠港駅の北端から真珠港駅跡を望む。真珠港駅跡は駐車場や別荘になっていた。近年まで痕跡があったらしいが残念ながら今は何の遺構も無い。だがここまで賢島駅から5分もかからないので少しの時間でもあれば見に来られてはいかがだろうか?