エルガが行く

失われた鉄路を行く人のブログ。関西中心に廃線跡と貨物船の世界をご紹介します。

京都市電稲荷線廃線跡レポ

記事修正しました(2017/1/31)イメージ 1
2015年3月 梅小路公園
京都市電は1912年烏丸線、千本大宮線、四条線、丸太町線の4路線が開業したのが始まりである。
もっとも京都に路面電車ができたのはもっと古く1895年に日本初の電気鉄道として伏見線を皮切りに京都電気鉄道が開業している。この京都電気鉄道の中には「N電」と呼ばれた堀川線や今回紹介する稲荷線も入っている。
そして1918年に京都市が京都電気鉄道を買収し京都市電は規模を拡大するのである。最盛期には76.8kmもの路線を擁していた。
しかし著名観光地がロードサイド店のごとくある京都にはモータリゼーションの波も観光客の増加とともに荒波となって訪れた。さらに京都市の財政は火の車で財政再建団体に指定されてしまい1969年には北大路線、西大路線、東大路線、九条線以外の廃止が決定されたのである。
それでも同年に全廃された大阪市電や1971年に全廃された神戸市電よりは遅くまで残ったが1976年には全廃が決定し1978年に京都市電は全廃となった。
今回紹介する稲荷線は京都電気鉄道からの引き継ぎ路線であり1904年伏見線の支線として開業。わずか0.7kmの短距離路線ではあったが全線が専用軌道であった。途中では京阪電車との平面交差もあり2度衝突事故を起こしている。
1970年3月31日には伏見線の廃止とともに稲荷線も廃止された。今回はその稲荷線の廃線跡勧進橋から稲荷にかけて紹介する。
なお勧進橋~京阪交差跡までは2015年5月3日、京阪交差跡~稲荷間は5月7日に取材している。
イメージ 2勧進橋電停跡。ちょうど伏見線の代替となった京都市バス81系統が走っている。
イメージ 3交差点付近には京都市の境界標が残されていた。
イメージ 4廃線跡は道路になっているが見ての通り高低差がある。そのためこの区間では盛土で通っていたようで現役時代の写真を見ても家の屋根の横を電車が走っているのが分かる。
イメージ 5勾配の底から少し上がると橋がある。この橋も廃止後に架けられたものであり京都市電の痕跡は一切無かった。
イメージ 6昭和46年3月なので廃止から1年後の完成である。
イメージ 7橋を渡るとまた勾配になり師団街道方面に至る。
イメージ 8師団街道との合流点。廃線跡はこの奥に続く。写真には写っていないが横に伏見稲荷大社参拝の観光バス用駐車場があり奥の観光客達はそのバス駐車場に向かっているのである。
イメージ 9現在廃線跡は「稲荷勧進橋線」という名前の道路になっている。
イメージ 10師団街道を渡りきると廃線跡は公園に姿を変えている。周りより微妙にまだ路盤位置が高いが架線柱の跡も見受けられる。
イメージ 11路盤の反対側。こちらの方が高さの関係が分かりやすいかもしれない。
イメージ 12奥には架線柱が残されていた。手前の古い柱がそうである。
イメージ 13架線柱の根元。京都市電でも架線柱が残っている場所は数少ない。
イメージ 14京阪への交差跡は「砂川会館」という建物になっている。この日はここまで。この先は観光客が多すぎて撮影できなかった。
イメージ 15撤退前に勧進橋方面に振り返り。一直線に路盤が続いていたことが分かる。市電の面影がまだ残っていた。
イメージ 16日を改めてゴールデンウィーク終了後の5月7日にはさすがに観光客も公園にはいなかった。ここは京阪を渡った先の廃線跡でここも公園になっている。勧進橋方面を向いて撮影。奥に砂川会館が見える。
イメージ 17振り向くと終点の稲荷電停が奥に見える。隣は伏見稲荷大社の参道。ここはこの日もそこそこ人が歩いていた。
イメージ 18稲荷電停跡。琵琶湖疎水を跨ぐ橋の上にあった。ちょうどベンチと写真右側に見えるラインの間が線路跡だったようで現在は埋められている。ちなみに奈良線の電車で見えないが踏切の奥は伏見稲荷大社である。
イメージ 19稲荷電停跡を別アングルから。こちらの方が線路とホームの位置関係が分かりやすいだろう。
イメージ 20疎水を跨ぐ橋の南端根元にレールが残されていた。配線的にここに営業用レールがあるのはあり得ないので安全側線であろうか。しかし今となっては貴重な現存レールである。