【青山単線地帯廃線跡レポ】0.青山単線地帯の歴史
2012年3月 西青山駅(この案内看板の青山トンネルは旧青山トンネルではなく新青山トンネルを指す)
上本町から伊勢中川まで特急に乗れば阪伊乙特急でも1時間弱。快速急行でも1時間半の旅である。
この仮想旅は画像の8時10分発の賢島行き特急に乗ったと仮定します。
河内山本でカーブのため減速して高安を通過すると再加速。
奈良県に入り大和高田と大和八木に停車。高架の桜井を通過すると三輪の山々が迫ってくる。
伊賀上津を通過すると左手に単線の廃トンネルが見えるだろう。そこが青山単線地帯の始まりである。
その前に歴史を知っておこう。
この青山単線地帯には悲しい歴史もある。これを無視して探索は出来ない。
これをもって現在の近鉄大阪線は全通した。
それではなぜこのブログで「青山単線地帯」と呼んでいるか・・・それは戦後に明らかとなる。
まず手始めとして1959年12月23日に美旗~伊賀神戸間が複線化された。
翌年1960年12月27日には阿保~伊賀上津間が複線化。
なおこの年には名阪直通運転の立役者中川短絡線も開業した。
そこから少し間が開き1967年川合高岡~伊勢中川駅西方の中川短絡線との分岐黒田分岐までが複線化。
10月19日には伊賀上津~西青山間に存在した三軒家信号場~西青山間も複線化。
翌月1日には大三~亀谷信号場(大三~伊勢石橋間に存在)間が複線化。
同時に高野信号場(伊勢石橋~川合高岡間に存在)~川合高岡間も複線化された。
そして平坦部の複線化が落ち着いた1971年10月25日その事故は起きた。
有名な青山トンネル脱線衝突事故である。
管理人が説明するよりこちら(ウィキペディアにリンク)を見た方が早いと思う。
詳しくは述べないが総谷トンネル(青山トンネル事故とは呼ばれるが実際は総谷トンネル)の中での事故だ。
上本町発名古屋行き特急と名古屋発難波・京都行き特急が正面衝突した。
死者27人負傷者227名の大惨事である。
近鉄はこの事故をきっかけに新線での完全複線化を進める事にした。
詳しくはこのサイト(時の鉄路)が詳しく管理人も参考になった。
完全複線化の前の暫定複線化については上記のサイトをご覧いただきたい。
そして新青山トンネルをはじめとした新線が建設されて開業したのが1975年11月22日。
この日青山単線地帯は廃止された。
そしてそれから35年以上・・・現在の青山単線地帯はどうなっているか。
そう思い立ち(発端は別の理由。詳しくは後述)2012年の春青山の地に赴いた。
おことわり
トンネルなどは残っていますがおそらく現在線を歩かなければ辿り着けないと思います。