エルガが行く

失われた鉄路を行く人のブログ。関西中心に廃線跡と貨物船の世界をご紹介します。

【青山単線地帯廃線跡レポ】0.青山単線地帯の歴史

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2012年3月 西青山駅(この案内看板の青山トンネルは旧青山トンネルではなく新青山トンネルを指す)
上本町から伊勢中川まで特急に乗れば阪伊乙特急でも1時間弱。快速急行でも1時間半の旅である。
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この仮想旅は画像の8時10分発の賢島行き特急に乗ったと仮定します。
上本町から特急に乗ってみよう。上本町を出ると鶴橋に停車して布施で奈良線と別れ大阪線単独の線路へ。
河内山本でカーブのため減速して高安を通過すると再加速。
大阪教育大前を通過して新玉手山トンネルに入る。ここにも廃線跡があるが近日訪問予定だ。
奈良県に入り大和高田と大和八木に停車。高架の桜井を通過すると三輪の山々が迫ってくる。
長谷寺を通過し少し長いトンネルを抜けて榛原に到着。三本松を通過していよいよ三重県に入る。
そして名張に停車して後ろ2両を切り離し伊賀神戸に停車。近鉄伊賀線改め伊賀鉄道の乗り換え駅だ。
なお伊賀線には伊賀神戸から西名張までの廃線跡もあるがこれはまた別機会に。
伊賀神戸を出て伊賀上津を抜けるといよいよその区間はやってくる。
伊賀上津を通過すると左手に単線の廃トンネルが見えるだろう。そこが青山単線地帯の始まりである。
では次の停車駅榊原温泉口で途中下車してこの廃線跡を見ると・・・
その前に歴史を知っておこう。
この青山単線地帯には悲しい歴史もある。これを無視して探索は出来ない。
この区間が開業したのは1930年12月20日。阿保(現青山町)~佐田(現榊原温泉口)間の開業である。
これをもって現在の近鉄大阪線は全通した。
なお阿保駅は1970年3月1日に青山町駅に、佐田駅は1965年3月18日に榊原温泉口駅に改名している。
現在大阪線は全線複線だが当初は工費の都合などから名張~参急中川(現伊勢中川)間は単線だった。
それではなぜこのブログで「青山単線地帯」と呼んでいるか・・・それは戦後に明らかとなる。
戦後近鉄大阪線の複線化を次々と進めた。
まず手始めとして1959年12月23日に美旗~伊賀神戸間が複線化された。
翌年1960年12月27日には阿保~伊賀上津間が複線化。
1961年には3月23日に名張~美旗間(桔梗が丘駅は当時未開業)が複線化。
8月21には複線区間に挟まれた伊賀神戸~阿保間も複線化された。
なおこの年には名阪直通運転の立役者中川短絡線も開業した。
そこから少し間が開き1967年川合高岡~伊勢中川駅西方の中川短絡線との分岐黒田分岐までが複線化。
10月19日には伊賀上津~西青山間に存在した三軒家信号場~西青山間も複線化。
翌月1日には大三~亀谷信号場(大三~伊勢石橋間に存在)間が複線化。
同時に高野信号場(伊勢石橋~川合高岡間に存在)~川合高岡間も複線化された。
そして平坦部の複線化が落ち着いた1971年10月25日その事故は起きた。
有名な青山トンネル脱線衝突事故である。
管理人が説明するよりこちら(ウィキペディアにリンク)を見た方が早いと思う。
詳しくは述べないが総谷トンネル(青山トンネル事故とは呼ばれるが実際は総谷トンネル)の中での事故だ。
上本町発名古屋行き特急と名古屋発難波・京都行き特急が正面衝突した。
死者27人負傷者227名の大惨事である。
近鉄はこの事故をきっかけに新線での完全複線化を進める事にした。
詳しくはこのサイト(時の鉄路)が詳しく管理人も参考になった。
完全複線化の前の暫定複線化については上記のサイトをご覧いただきたい。
そして新青山トンネルをはじめとした新線が建設されて開業したのが1975年11月22日。
この日青山単線地帯は廃止された。
そしてそれから35年以上・・・現在の青山単線地帯はどうなっているか。
そう思い立ち(発端は別の理由。詳しくは後述)2012年の春青山の地に赴いた。
 
おことわり
この「青山単線地帯」ですが探索対象は西青山駅西方(これも後述)~榊原温泉口駅間とします。
廃線跡自体は伊賀上津駅東方から続いていますが現在線とあまりにも近過ぎる為対象外です。
トンネルなどは残っていますがおそらく現在線を歩かなければ辿り着けないと思います。